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日々雑感

日々の他愛ない雑感を記しています。読書、芸術、随想、少し仕事のことなど。

備忘 NHKスぺシャル「12日間の深層」

11日どころか12日も終わりそうなのであるが。
いい特集だった。

福島第一原発の中でも、特に事態が深刻であったことが昨今判明した1号機を巡る対応の分析。
1号機はメルトダウンしたことが後に判明したが、実に12日もの間、原子炉内部が空になっていたことが見逃されていた。それはなぜか?1号機をはじめとした事態対応に当たった事象の解析から、構造的な原因を分析する。
危機における組織のコミュニケーション在り方を考えるうえで、非常に有意義な内容であった。

 

原発云々も大事なテーマだが、そういう問題は論じ尽くされているし完全に門外漢なのでここでは触れない。
このインシデントが提起する重要な問題は、危機管理なかんずく危機における組織のコミュニケーションの在り方、だろう。

起きた事象を表面的にまとめると、吉田所長に状況判断・意思決定・上部機構との意思疎通の負担が手中していた、らしい。
吉田所長に意思決定の負担が行きすぎ、正常な判断が困難になっていたというのは非常に象徴的な事象だ。
これは、トップダウン型のヒエラルキー組織の弱点を端的に示している。
リーダーに負担が集中するというのは、トップダウンに伴う一種のサイドエフェクトであろう。
(更に在りうるサイドエフェクトを挙げると、今回はこれは一瞬しか触れられていなかったが、現場がトップに対しいちいち”聖断”を求めだす。ということである。)

一方で、では分権しようという単純な話でもない。
(私は基本的には分権を進めるべきというスタンスだが)集検と分権にはメリット・デメリットがあるので、一概にどちらが良いとは言えない。論点としても、集権・分権以外の要素が介在し2項対立的に還元できない。
政治的に集権せねばならないものもある。(災害は勿論、国防・治安維持なら尚更)

危機対処の目的に立ち返れば、ある面では集権すべきだし、ある面では分権すべきなのだ。
ただ、その内容を精査して、組み合わせるのが重要であり、かつ難しいのである。

集権と分権の関係を至極適当にまとめると、、、
・折衷の問題
 ある問題について適切な集権的意思決定を下そうとすれば、他の問題についてはほどほどに分権して、負担を分散しておかねばならない。(そうしないとしょうもない質問が集中しだす)
・情報の問題
 ある問題について集権的な意思決定に必要な情報を集中させようとすれば、やや逆説的に聞こえるが、各セルの自立性を高めておかねば情報のチャンネルが先細ってしまう。
 これはこれまで述べている分権とは少し趣旨が違うが、関連性(相関関係)がある。
・集権化のデメリットの回避
 どうしても一人の人間においてバイアスが生じることは避けられない。一本のラインによるトップダウンだけを繰り返しているとバイアスが固定化する。これを適切にバランシングするには、他のアクターの視点を適時に取り入れることが必要となる。
(”横”にいた刈羽原発所長の意見具申の例がこれに当たる)
・技術の問題
 主権にも分権にも結局プラットフォームが必要。複雑な環境で分権を適切に進めようと思ったら、各セルが勝手にバラバラに動くのを防ぐために情報共有が必要になる。そんなのをいちいち電話とかFAXしてたら話にならないので、クラウド的なものが必要。(というかクラウド欲しい…)

他にも色々あるが、複数の観点から集権と分権の関係を整理し、かつ組み合わせる必要がある。

(このようなテーマに関して「ハイブリット型組織」という概念があったが、それにあたるのであろうか。)

疲れたので、とりあえずこの辺りで。

分析手法も興味深かった。
会話の記録をAIで解析、というのが非常に琴線に触れた。個人的に過去に漠然と感じたことがあったが、流石は現代。もう普通に当たり前にこういうことが出来るのだ。
(AARは勿論、オンゴーイングのオペでももっと活用出来るのではと思料。無論一つのツールであり、それだけで事足りるという話ではないが)
何をするにも個人には限界がある。AIやロボットが個人の仕事を奪うのではという危惧が巷をにぎわせているが、生憎実際の運用面ではそこまで至っていないし、そもそも個人に負担が集中しかねないのだ。
AIが人間をサポートする、そしてまたそのAIを(勿論万能ではないので)スタッフがサポートする(逆もあるが)態勢・体制が必要であろう。

防災 総論1

最近、必要があり防災について、勉強を始めた。

学問というより、実務の必要に迫られてのリサーチなので、しかもあまり時間もないので、どこまで体系的にできるかわからないが。

これまで仕事で災害派遣に関わる事はあるにはあったが、殆ど小さなユニットの話か、現場での、自分正面、或いは個人としての即応性をいかに保つかということでしかなかった。

防災というものについて、しっかり考えたことはなかったと痛感している。

 

とりあえず、手始めに幾つかの本を読んでいる。

今今の防災行政の本は面白くないし、建設や都市工学の話は、正直専門外でまだピンとこない。とりあえず、歴史から読んでいる。

 

手始めに分かったことは、月並みな、極めて月並みな内容。

日本はこれまで幾度となく災害に見舞われてきた。そして多くの教訓を得てきた。

それらは昨今の

しかし、十分に生かされてこなかった。幾度となく得られてきた教訓は、幾度となく忘れられてきたのである。

レヴュー アレシンスキー展 @国立国際美術館

 

●アレシンスキー展

下に書いたクラーナハ展と一緒にやってる、アレシンスキーという人の現代アートも良かった。

モダンを見て、初めて作品と自分を近く感じ、「ああこういうものが描きたいんだな」と我が事のように感じることが出来た。

ここで少し、モダンアートに対する考えを書いてみる。

私は、モダンや前衛のアートが、全くわからない。

分からないというのは、ピンとこない、のだ。直観的に美しいと感じることも、勿論ある。例えば、(今は閉館中であるが)ブリヂストン美術館にあったザオ・ウーキーの先品は好きだった。なんというか、色彩が良いとただ思っていただけのこと。

そう感じるほぼ唯一最大の理由は、作品と自分を関連付けられないことにあるのではないかと思う。

描く、とは、対象と自己との関係の置き方であり、対象に自己を投影する行為であると思う。絵画の鑑賞者は、画家が描いたものを通じてその美しさを感じ、その背景にその美しさを愛でる画家の喜びに触れる。

しかるに、モダンアートは、(私の理解では)これまで(近代まで)人間なかんずく画家が行ってきた「描く」「絵を描く」という行為そのものをいったん相対化し、白紙に戻す試みなのではないだろうか、と思っている。このような行為は、例え理屈で理解したとしても、私はまだ共感をもって見ることは出来ない。

 

このアレシンスキーの先品は、その点、なんというか、表現者が何かに立ち向かい、それに立ち替わる自分にしかない何かを表現しようとするエネルギーを感じることが出来た。

この絵画は、抽象画であるが、それは目の前にある何かを超えた、まさに抽象した何かであるという事。目の前にある、とは、ただ見えているということではなく、言葉に規定された「もの」だ。

我々は、言葉によって物事を理解し、規定する。言葉があれば、何も見えていなくても脳の中にものを描くことすらできる。言葉によって見ている、とすら言える。

絵を見た時も

 

アレシンスキーが描く絵は、言葉からの有利、言葉への反逆だ。

 

 

クラーナハと併せて、一回では観きれないボリュームであったので、また行く。

備忘 クラーナハ展 @国立国際美術館

日曜美術館視聴(TV)

クラーナハ展に行こうと思っている(実際にいった鑑賞の2週間前)

クラナーハの美、特に女性に対するこだわりと強い美意識、耽美的ともいえる鋭敏な美意識を感じ取ることが出来た。

ヴィーナス

どこか怖い。表情が明らかに、悪い。

ユディット 

敵将の首を刈り取る瞬間のユディットが、妖艶に描かれている。

 暴力的シーンとしての激しさはなく、寧ろ神秘的とすら移る美をたたえている。そして殺される男の表情は、光悦としてどこか「まんざらでもない」感じがある。

 恐らくこれは、画家の女性の力に対するあこがれ、被支配願望を表したものではないか。表面的には男は支配願望を持っており、女性を手なずけひれ伏させようと思っている。しかし、自己の力を超越した美への憧れと、そんなものがもしあるならいっそのこと篭絡され、ひれ伏してしまいたいという被虐的な願望があるのではないか。

 それは、彼のテーマである「女の力」にも通じるものだ。自己否定としての被虐ではなく、純粋な美の追求、快楽の追求の結果としての態度。そんな画家の内面を吐露し、かつ鑑賞者に問いかけるのが、この作品の狙いといっていい。

 

以下、鑑賞後

 

国立国際美術館 クラーナハ

この名前を知っている人は、少ないであろう。私も今回初めて観、知った。

教科書に出てくるルターの肖像を描いた人、と言われればピンとくる人がかなり増えるのでは。17世紀ドイツ北方ルネサンスの画家である。

風土や文化が影響してか、イタリアのそれとは似ても似つかない陰鬱な感じがまた独特である。

和辻の『風土』という本があるが、人間の住む環境が、芸術のような表現行為に与える影響の強さを、これらの絵画の色彩から感じることが出来る。

 

クラーナハの表現力

特に女性の人間描写が、凄い。

何観てんだと鑑賞者の本性を逆に抉り返すような眼つき、表情。

身体描写はマニエリスムを思わせる不自然でいてどこか妖艶な曲線を多用する。

この画家は人(女)をいつもこんな風に観ていたのか。

家庭や職場ではさぞかし疲れたであろうに(笑)

特に聖書や神話の場面を俗人的心理描写を持って描いた名作が数多くある。

宗教改革と反改革の嵐吹き荒ぶ時代に、よくこんな人間臭いものを描けたものだと、心底感服する。

細かい技巧は分からないが、制作へのよほど強い意欲とどうにもならない感性がそうさせたのであろうか。

彼が描こうとしたものは、何であったのだろうか。それは一言で表せば、人間の真の姿ではないだろうか。

当時の宗教画においては、宗教的場面、神話的場面を題材として、人間を理想的に描くのが普通であった。人間は神の化身のように扱われ、神々しい表情や

 

アートレビューすること

これまで、美術を見るたびに、幾つかの文章を書いてきた。

事実、全く書いていない、ということは断じてない。寧ろ、折に触れて、書いてはきた、と思う。

一方で、書いて「は」、と断らざるを得ないところに、自分の少しの弱さと気の迷いが現れている。

本当にしっかりしたものを書けているのかは自信がないし、恐らく書けていないと認めているのだ。

 

書くことで、人は何が得られるのか。

端的に言って、書くこととは考えることであり、言語化されていない獏是とした印象を、言語に落とし込む(或いは昇華させる)行為であると思う。

頭だけで考えている(と表現される)行為は、得てして感じているに過ぎないことである。

それが過ぎた時に、果たして何を考えていたのかはっきりしたものが残っておらず、単なる一過性の感情と一体何が違ったのか、と訝しむ羽目になる。

 

私たちは絵を見るとき、何となく、「ああ綺麗だなぁ」と思う。この時心の中で何が起きているのだろうか。

恐らく、これは先に記したように、明確には言語化されていない曖昧な感情、印象である。ゆえに、それは広がりに欠けまた何に対してのどのような感情なのか十分明確にされていない。

人の頭の中には感情とそれにまつわる記憶が詰まっている。恐らく上記のように言語化されていない印象を抱くとき、人は過去と照らし合わせて感情の残像に身をゆだねているのであろう。

 

これに対し、言語化するとは、そのような印象に明確な形を与える行為を意味する。

過去の残像ではなく、今ここにあってかつそれが今後持ち得るであろう意味に考察の光を当てる。

 

ここまで書くという事の本質的な意義を考えてきたが、これから、芸術鑑賞における「書く」ことの意味と機能を考えてみたい。

 何か絵を見た時、目に入ってきた情報を受け、過去の印象と照らし合わせて「ああ綺麗だ」と思う。ここまでは、何かを「感じた」或いは「思い出した」というプロセスだ。しかしここにある働きは、情報に対して自己の印象を選ぶといういわば受動的な行為でしかない。この行為は、絵画の情報に対して受け身である。目の前にあるものを「見る」のみで、そこに自分から何かを見出し意味づけていくような鑑賞の仕方は出来ていない。

 

本来良質な芸術を鑑賞する方法とは、このような受動的なものでいいのであろうか。

芸術はより多くを鑑賞者に問いかけるため、全てを語るのではなく、問いかける余地を残している。

(続く)

 

再開

ブログを再開した。

 

フェイスブックだとどうしても書きにくい。書くためにやっていたSNSであったが、今では書きにくい環境になってしまった。

多くの人に見られているため、どうしても読まれることを意識してしまう。

そうすると、制約が生まれる。

・読みやすいよう、短く書く。

(それでも、だいぶ長いけど)

・各内容にも気を遣う。

 

1点目について。

SNSも始めたころは、だいぶ好きなように書いていた。もともと書くことも読むことも嫌いではなかったので、どちらかといえば分量の多い文を書いていた、と思う。

しかし、あまり長く書きすぎると、読まれない、というジレンマがある。

そこで、なるだけ文章を短く書き、簡潔にまとめ、語彙も分かり易くする、という努力をするようになる。

それはそれで文章を書く練習になるのだが、いかんせん書きたいことは書けない。

また、無理に短くする関係上論旨をシェイプアップしているので、内容的にも少し薄い内容になってしまっている、と思う。

また、長い文章を、冗長ではなくしっかりまとめる、ということが出来なくなる。

長さ、という点で、書きたいように思い切り書くという場は、必要である。

 

2点目について。

SNSは、始めたころは自分と真に気の合う仲間しかいないバーチャル空間だった。しかし、今では違う。色々なタイプの人間がおり、幅広い属性の人間がおり、もはやリアル以上に雑多な環境となっている。

そうなると、書けないことが多くなる。

第一に、恥ずかしいので余り私的すぎることは書けない。

第二に、政治的に機微のあることは書けない。そもそも私はそういう仕事である。

そういう理由で、やはり書きたいように欠ける空間が必要である。

 

このようなわけで、自分の書ける空間がほしい、というのがこれを再開した理由である。

 

SNSで聞こえのいい短い文章ばかり書いているとどうなるか。

確証はないが最近漠然と感じているのは、どんどん文章能力が落ちているのではないか、という危惧である。

表現力がある意味で磨かれている(これも怪しいが)一方で、ある一定以上の文章はそもそも書いていないため、そのようなものを書く能力がおのずと落ちているのではないだろうか。

そこに非常に危惧を感じる。発信を続けることが文章能力を劣化させる事があるとしたら、なんという矛盾であろうか。

やはり、メディアの使い方を考えなければならない。

初めての事

【娘のこと】

何をするにも初めてです。
当たり前ですが。
最近少し成長のテンポが上がったのか、初体験のペースも増している気がします。

今週末も色々と初めての事がありました。
○今朝、ふと見ると外が雪化粧を纏っていたので、慌てて雪遊び。満更でもなさそうでした。私の方が冷たかったです。
○歯が少しずつ生えてきたので、歯磨き。大人の歯磨きをいつも見せていたので興味は示しますが、まだ怖がっています。
○初めて私のコートを着る。最近袖を通す事を覚えたので着るのが楽しいみたいです。これは余り重要ではないかな。笑

気が付けば、初めての事って、結構あるんですよね。
大から小まで。
意識してないだけで。
夫婦はもちろん、同僚、友人、昔からの腐れ縁の様な仲ですら、実はそうなんでしょう。
流してしまわないで、この瞬間を大切に生きていきたいものです。

かつて自社で新人教育の仕事をしていました。
先輩がふと、「彼らにとっては全てが人生の初体験」と言っていたのを思い出します。
人に接する(コミュニケーションする)上でもそう、その人の初めての、そして2度とない瞬間に立ち会わせて貰っている。
そんな風に思っていたいものです。