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日々雑感

日々の他愛ない雑感を記しています。読書、芸術、随想、少し仕事のことなど。

備忘 クラーナハ展 @国立国際美術館

日曜美術館視聴(TV)

クラーナハ展に行こうと思っている(実際にいった鑑賞の2週間前)

クラナーハの美、特に女性に対するこだわりと強い美意識、耽美的ともいえる鋭敏な美意識を感じ取ることが出来た。

ヴィーナス

どこか怖い。表情が明らかに、悪い。

ユディット 

敵将の首を刈り取る瞬間のユディットが、妖艶に描かれている。

 暴力的シーンとしての激しさはなく、寧ろ神秘的とすら移る美をたたえている。そして殺される男の表情は、光悦としてどこか「まんざらでもない」感じがある。

 恐らくこれは、画家の女性の力に対するあこがれ、被支配願望を表したものではないか。表面的には男は支配願望を持っており、女性を手なずけひれ伏させようと思っている。しかし、自己の力を超越した美への憧れと、そんなものがもしあるならいっそのこと篭絡され、ひれ伏してしまいたいという被虐的な願望があるのではないか。

 それは、彼のテーマである「女の力」にも通じるものだ。自己否定としての被虐ではなく、純粋な美の追求、快楽の追求の結果としての態度。そんな画家の内面を吐露し、かつ鑑賞者に問いかけるのが、この作品の狙いといっていい。

 

以下、鑑賞後

 

国立国際美術館 クラーナハ

この名前を知っている人は、少ないであろう。私も今回初めて観、知った。

教科書に出てくるルターの肖像を描いた人、と言われればピンとくる人がかなり増えるのでは。17世紀ドイツ北方ルネサンスの画家である。

風土や文化が影響してか、イタリアのそれとは似ても似つかない陰鬱な感じがまた独特である。

和辻の『風土』という本があるが、人間の住む環境が、芸術のような表現行為に与える影響の強さを、これらの絵画の色彩から感じることが出来る。

 

クラーナハの表現力

特に女性の人間描写が、凄い。

何観てんだと鑑賞者の本性を逆に抉り返すような眼つき、表情。

身体描写はマニエリスムを思わせる不自然でいてどこか妖艶な曲線を多用する。

この画家は人(女)をいつもこんな風に観ていたのか。

家庭や職場ではさぞかし疲れたであろうに(笑)

特に聖書や神話の場面を俗人的心理描写を持って描いた名作が数多くある。

宗教改革と反改革の嵐吹き荒ぶ時代に、よくこんな人間臭いものを描けたものだと、心底感服する。

細かい技巧は分からないが、制作へのよほど強い意欲とどうにもならない感性がそうさせたのであろうか。

彼が描こうとしたものは、何であったのだろうか。それは一言で表せば、人間の真の姿ではないだろうか。

当時の宗教画においては、宗教的場面、神話的場面を題材として、人間を理想的に描くのが普通であった。人間は神の化身のように扱われ、神々しい表情や

 

アートレビューすること

これまで、美術を見るたびに、幾つかの文章を書いてきた。

事実、全く書いていない、ということは断じてない。寧ろ、折に触れて、書いてはきた、と思う。

一方で、書いて「は」、と断らざるを得ないところに、自分の少しの弱さと気の迷いが現れている。

本当にしっかりしたものを書けているのかは自信がないし、恐らく書けていないと認めているのだ。

 

書くことで、人は何が得られるのか。

端的に言って、書くこととは考えることであり、言語化されていない獏是とした印象を、言語に落とし込む(或いは昇華させる)行為であると思う。

頭だけで考えている(と表現される)行為は、得てして感じているに過ぎないことである。

それが過ぎた時に、果たして何を考えていたのかはっきりしたものが残っておらず、単なる一過性の感情と一体何が違ったのか、と訝しむ羽目になる。

 

私たちは絵を見るとき、何となく、「ああ綺麗だなぁ」と思う。この時心の中で何が起きているのだろうか。

恐らく、これは先に記したように、明確には言語化されていない曖昧な感情、印象である。ゆえに、それは広がりに欠けまた何に対してのどのような感情なのか十分明確にされていない。

人の頭の中には感情とそれにまつわる記憶が詰まっている。恐らく上記のように言語化されていない印象を抱くとき、人は過去と照らし合わせて感情の残像に身をゆだねているのであろう。

 

これに対し、言語化するとは、そのような印象に明確な形を与える行為を意味する。

過去の残像ではなく、今ここにあってかつそれが今後持ち得るであろう意味に考察の光を当てる。

 

ここまで書くという事の本質的な意義を考えてきたが、これから、芸術鑑賞における「書く」ことの意味と機能を考えてみたい。

 何か絵を見た時、目に入ってきた情報を受け、過去の印象と照らし合わせて「ああ綺麗だ」と思う。ここまでは、何かを「感じた」或いは「思い出した」というプロセスだ。しかしここにある働きは、情報に対して自己の印象を選ぶといういわば受動的な行為でしかない。この行為は、絵画の情報に対して受け身である。目の前にあるものを「見る」のみで、そこに自分から何かを見出し意味づけていくような鑑賞の仕方は出来ていない。

 

本来良質な芸術を鑑賞する方法とは、このような受動的なものでいいのであろうか。

芸術はより多くを鑑賞者に問いかけるため、全てを語るのではなく、問いかける余地を残している。

(続く)

 

再開

ブログを再開した。

 

フェイスブックだとどうしても書きにくい。書くためにやっていたSNSであったが、今では書きにくい環境になってしまった。

多くの人に見られているため、どうしても読まれることを意識してしまう。

そうすると、制約が生まれる。

・読みやすいよう、短く書く。

(それでも、だいぶ長いけど)

・各内容にも気を遣う。

 

1点目について。

SNSも始めたころは、だいぶ好きなように書いていた。もともと書くことも読むことも嫌いではなかったので、どちらかといえば分量の多い文を書いていた、と思う。

しかし、あまり長く書きすぎると、読まれない、というジレンマがある。

そこで、なるだけ文章を短く書き、簡潔にまとめ、語彙も分かり易くする、という努力をするようになる。

それはそれで文章を書く練習になるのだが、いかんせん書きたいことは書けない。

また、無理に短くする関係上論旨をシェイプアップしているので、内容的にも少し薄い内容になってしまっている、と思う。

また、長い文章を、冗長ではなくしっかりまとめる、ということが出来なくなる。

長さ、という点で、書きたいように思い切り書くという場は、必要である。

 

2点目について。

SNSは、始めたころは自分と真に気の合う仲間しかいないバーチャル空間だった。しかし、今では違う。色々なタイプの人間がおり、幅広い属性の人間がおり、もはやリアル以上に雑多な環境となっている。

そうなると、書けないことが多くなる。

第一に、恥ずかしいので余り私的すぎることは書けない。

第二に、政治的に機微のあることは書けない。そもそも私はそういう仕事である。

そういう理由で、やはり書きたいように欠ける空間が必要である。

 

このようなわけで、自分の書ける空間がほしい、というのがこれを再開した理由である。

 

SNSで聞こえのいい短い文章ばかり書いているとどうなるか。

確証はないが最近漠然と感じているのは、どんどん文章能力が落ちているのではないか、という危惧である。

表現力がある意味で磨かれている(これも怪しいが)一方で、ある一定以上の文章はそもそも書いていないため、そのようなものを書く能力がおのずと落ちているのではないだろうか。

そこに非常に危惧を感じる。発信を続けることが文章能力を劣化させる事があるとしたら、なんという矛盾であろうか。

やはり、メディアの使い方を考えなければならない。

初めての事

【娘のこと】

何をするにも初めてです。
当たり前ですが。
最近少し成長のテンポが上がったのか、初体験のペースも増している気がします。

今週末も色々と初めての事がありました。
○今朝、ふと見ると外が雪化粧を纏っていたので、慌てて雪遊び。満更でもなさそうでした。私の方が冷たかったです。
○歯が少しずつ生えてきたので、歯磨き。大人の歯磨きをいつも見せていたので興味は示しますが、まだ怖がっています。
○初めて私のコートを着る。最近袖を通す事を覚えたので着るのが楽しいみたいです。これは余り重要ではないかな。笑

気が付けば、初めての事って、結構あるんですよね。
大から小まで。
意識してないだけで。
夫婦はもちろん、同僚、友人、昔からの腐れ縁の様な仲ですら、実はそうなんでしょう。
流してしまわないで、この瞬間を大切に生きていきたいものです。

かつて自社で新人教育の仕事をしていました。
先輩がふと、「彼らにとっては全てが人生の初体験」と言っていたのを思い出します。
人に接する(コミュニケーションする)上でもそう、その人の初めての、そして2度とない瞬間に立ち会わせて貰っている。
そんな風に思っていたいものです。

死ぬまでにしたい事

久しぶりに書いています。
最近友人で、ブログ始める人が結構いらっしゃるので、私もたまにやろうかなと。

の割に変な題名ですが笑

皆さん、死ぬまでにしたい事、ありますか?

さっき、NHK日曜美術館を見ていました。
紹介されていたのは、とある日本人画家。
戦前に一人渡米し、現地で絵画に目覚め、そしてアメリカ社会に溶け込んで、評価されていったそうです。

彼の生い立ちや諸々の作品も良かったのですが、何よりその絶筆に惹かれました。
死ぬまでに描いていた作品。
それは荒野に立つ、一本の枯れ木でした。

芸術や文学を見ていると、作者が死ぬまで描き続けた作品によく出会います。
殆どの人、会社勤めの人(多分私も)は、死ぬだいぶ前に仕事辞めるんですね。
しかし、彼らは違う、死ぬ直前まで、何かに魂を込め続けるんですね。

もちろん良い悪いではなくて。
仕事辞めて家族や一人でゆっくり過ごすのも、勿論素晴らしい。
要は、命を何に使い続けるか、だと思うんです。

自分が何故、芸術や芸術家が好きかも、少し分かった気がします。
命ある限り続けたい、そんなものを持っていたいです。

内と外

子供がハイハイを憶えた。

ついこないだまでの彼女は、動くことを少し怖がり、ひっくり返っては泣きじゃくり、元に戻してもらう始末であった。
それが今ではどうだろう。
逆にハイハイしないようひっくり返してもすぐにうつ伏せに返り、また動く。

どうやら動くことが、それ自体が楽しくて堪らないようだ。
明確に何処かに行きたい訳ではない。ただ、動きたがる。動ける事に満悦を覚える。
そしてやはり、何処かに行きたがる。
目に入ったものに手を伸ばし、我が物にしたがる。

何でそんなものに手を伸ばすんだ⁉︎と聞いても仕方ないのかもしれない。
深い意味はなく、ただ手が届く、それが嬉しいのだ。早く手を伸ばさないと他の誰かが手を伸ばす。ただそれが許せないらしいのだ。

そんなこんなで彼女は、布団から這い出、畳に泳ぎ出で、襖の縁まで越えようとする。
こっちは危ないし並べた本や仕事道具まで散らかされては堪らないから、引っ張り込む。
それがまた気に食わないらしく、余計に寝室の外に出たがる。

寝室は寝心地が良く安全で、食べ物にも不自由せず、そこは最適な環境と言えなくもないが、それをもはや認めたがらない。
外に出たら余計に良いものがある、気がするし、登り龍な今の気持ちには危ない目に会うかもしれないという自制心は、退屈過ぎる。

まだこっちの方が力は強い、本気でやりあったら負けはしない、などと意気がってもいられない。
物を壊されたらそれこそ堪らんのだ。こっちは怪我しても無邪気に笑っていられる歳でもない。愛読書をクシャクシャにされたらそれこそ一大事。
やがて、近いうちに彼女から目が離せなくなろう。
部屋も片さねばならなくなろう。
噛み付いてくる事もあろう。
忘れてはならない、かつて皆、そうして大人たちを払いのけて成長してきたのだ。落ち着くと昔のヤンチャは直ぐに忘れてしまうのが常だが。

そういう意味ではもう、status quoは来ない、のかもしれない。
新しい居間の秩序や生活リズムと喧嘩をしても仕方ない。
その中で本当に守るべき物を再定義して、やっていくしかない。
子供も手なづけねばなるまい。
本当にしてはいけない事も教えたいが、力を少しつけただけで、まだまだそこまでの分別には至っていないと見える。
ただ叱りすぎて嫌われてはそれこそ一大事だから、今のうちから散々仲良くしておくのだ。

さて、明日も楽しくいきましょか!

備忘 グエルチーノ展 国立西洋美術館

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アップするのをすっかり忘れてましたが、今週末までなんですね。

国立西洋美術館  グエルチーノ展

バロックはあまり観たことなくて知識もなかったのですが、素晴らしい作品たちでした。

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彼、グエルチーノは、イタリアはトスカーナ地方、チェントという都市で生涯を過ごした、同地を代表するバロック画家ということです。

チェントで生涯の大半を過ごし、この街の美術館や教会に多くの作品を残しています。

イタリア、チェントチェント - Wikipedia

素敵なところですね🎵
イタリアファンには堪りません😭

余談ですが、この街、地震学者が予測の成否を巡り裁判にかけられてしまった、数年前の大地震で大きな被害を受けています。

そもそもこの展覧会も、街の美術館が被害を受けて展示を継続出来なくなったために、作品の避難を兼ねて開催された、とのこと。

この画家に出会えた不幸中の幸いに、複雑な思いがします。
当然寄付がなされるようですが、チェントとその芸術が一刻も復興することを祈るばかりです。



さてさて、作品ですが。

作品の大きな主題はやはり、宗教と人、でしょうか。

バロック芸術ということで、普段よく観る見慣れた印象派や、鮮やかなルネサンスとも違った、強烈で重厚な感じが非常に印象的です。

このバロックというのは、中世ヨーロッパで見られた一つの様式であり、宗教改革の動きに対抗するためカトリック教会が主導した反宗教改革のための芸術です。そのため、見る人々の信仰心に訴えることが一大テーマであったようです。

こうしてみると確かに神や神に仕える聖職者達の出で立ちは荘厳で、また奇蹟の描写なども劇的です。

一方で、人々にはどこか憎めない人間らしさがあり、また人々の生活風俗が所々に垣間見えていました。
私がカトリック信者でないからそう思うのかもしれませんが、バロックの様式を守りつつ、そこには収まりきれない何かを描ききろうとする画家の、心意気を感じて嬉しくなります。



もう一つの見所は、作品の遍歴でしょうか。

彼は、先にも述べたようにチェントにおいて生涯の殆どを過ごしますが、短いながらもヴェネツィアフィレンツェやローマへの遊学を経験し、それが作風に強い影響を及ぼしています。

若かりし頃、暗く暗示的であった作風が、ルネサンス芸術の影響を受けてか色彩の幅、厚みを増していく。
また部分的であった光彩も、明るく作品全体を包み込むようになる。
そしてギラギラしている、鑑賞者を突き抜けるような人間の眼差しも、リアリティーは保ちつつも、どこか穏やかな達観を帯びていく。

絵画、そして人間と真摯に向き合った画家の魂の遍歴がそこにあるようでした。

当たり前ですが、まだまだ知らない画家が沢山いますね😅
体系的に、勉強する必要がありそうです。

お読み下さい、ありがとうございました❗️
m(_ _)m

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