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日々雑感

日々の他愛ない雑感を記しています。読書、芸術、随想、少し仕事のことなど。

備忘 弁論大会

こんにちは^^

今日は、弁論大会に行ってきました。

フジサンケイグループが主催する、第31回土光杯全日本青年弁論大会です。

テーマは、「世界は女性の時代へ-私の提言」で、女性の社会進出や男女平等といったテーマについて、週に学生さん、また若い方が弁論をされるというものでした。

 

実は、小生、学生時代某大学の弁論部に所属していたことがあります。お恥ずかしながら殆ど幽霊部員で、壇上に立つことは一度もありませんでしたが、弁士の話を聞いたり、何より仲間と色々議論を交わすのは好きでした。今日も、若い人たちの話を聞いて、そんな当時の淡い思いを少し振り返ることが出来ました。

 

頑張った弁士に、心から次の二つの言葉を言いたい。

 

1 お疲れさん!

2 おめでとう!

 

2について。

一応大会なので、順位はつきます。表彰もあります。惜しくも漏れる人もいます。

しかしそんなことが問題ではない。

成果が出なかった、緊張して思うように出来なかった。もしそう思うならば、むしろ、それだけの高いハードルのチャレンジをした、ということです。大会に参加した中で、一番貴重な経験をしたということです。

 

もちろん客観的な評価が伴う実力も大事ですが、それは自分の限界と向き合うチャレンジを通じてしか得られない。そう思います。

 

  • 弁論は、何のためにするのか?

ちょっとここで考えてみたい。はて、弁論って、何のためにするのでしょうか。

これは僕自身、学生時代によくわからなかったことでもあります。

 

ニーズを、問題解決のための知識や情報の伝達手段として考えた場合、必ずしも、弁論に頼る必要はありません。明治の自由民権運動の時代ならいざ知らず、情報があふれ、ITインフラの整備された現代では、ちょっと知りたいことはググればすぐ出てくるし、論文なんかも出てくるでしょう。その中には政策提言的なプラクティカルなものもあるはずです。すなわち、情報の垣根がない。情報がいわばフラット化してしまった、と言えます。

 

そこで考えなければならないのは、ではその情報は、どのようにして効力を発揮するのか、ということです。

結論から言うと、どんな情報も知識も、伝わらなければ効力を発揮しえない。そして「伝える」という行為そのものは、人間にしかできない。

私は、弁論の価値は、まさに伝えるという行為そのものにあると考えます。言いかえると、ただ情報を紹介するだけでなく、行動への動機付けに転換する行為です。

 

人は、知識を求めるものです。と同時に、何らかの行動に移そうとする場合、それ以上の動機をも求めます。それは具体的なイメージであったり、ロールモデルであったり、それによる「あの人のようになりたい」「自分にも出来るかもしれない」という思いであったり。

一言でいえば、情念、とでも言えましょうか。

そして、それがないと、たとえどんなに客観的に見える情報があったとしても行動に移す決心はつきにくいものです。

 

現代は、先に述べたように、情報が溢れています。一方で、それを理解し、実行に移す、或いはそうなる様に人に伝えることは容易ではありません。

問題を抱えながら、多くの人や組織が、それを解決できないのはなぜでしょうか?

知識が足りないからでしょうか?

おそらく違うのです。

むしろ、それを実行に移す、或いは移させることが難しいのです。

 

もしそれが容易であったなら、今頃より多くの社会問題が解決されていることでしょうし、実際なかなかうまくいかないケースには、よく出くわします。

なぜなのか、それはすでに書いた人間の性質によるもので、情報が、動機づけの効果を持って伝わったかどうかではないかと思うのです。

まさに情報は「情に報いる」ことが必要で、それが出来ない知識は、それがもつポテンシャルを発揮できないのでしょう。

 

  • 情報に付加価値をつける行為。

そういう意味で、弁論とは、情報に付加価値をつける行為ではないかと思います。

先にも述べたように、今は知識そのものは字面で良ければすぐに出てくる世の中です。しかし、どんなに検索しても、絶対に出てこないものがある。それは、「あなた」。

あなたがどう感じ、行動し、知識を具体化したか、そしてそれは人生においてどんな意義を有するか。グーグル先生はそういうことには答えてくれません。そして、聞く人を勇気づけ、それなら私もやってみよう、と思わせるのは、そんなロールモデルなのです。

 

ですから弁論とは、情報とともに、その情報を体感して、行動する自分を見せる行為、であると定義できると思います。もちろん正確な知識もロジックも非常に大事で、決してそれらの重要性が低いなどとは言うつもりはありませんが、それでもなお弁論が論文輪読会ではないことの意味は、そこにあるのだと思います。

 

もちろんここに書いたのは、私が考えたもので、極めて拙い文章であり正解でも何でもありません。その意味は、きっと自らこのチャレンジを行った一人ひとりの中にあり、そして今後も模索していくのでしょう。

私が偉そうに言える筋合いは何もありませんが、是非その模索を続け、素晴らしい弁士、人、リーダーに、なっていってほしいと思います。

弁士の今後のご活躍を、こっそり応援しています。

 

 

ではまた!