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日々雑感

日々の他愛ない雑感を記しています。読書、芸術、随想、少し仕事のことなど。

アートレビューすること

これまで、美術を見るたびに、幾つかの文章を書いてきた。

事実、全く書いていない、ということは断じてない。寧ろ、折に触れて、書いてはきた、と思う。

一方で、書いて「は」、と断らざるを得ないところに、自分の少しの弱さと気の迷いが現れている。

本当にしっかりしたものを書けているのかは自信がないし、恐らく書けていないと認めているのだ。

 

書くことで、人は何が得られるのか。

端的に言って、書くこととは考えることであり、言語化されていない獏是とした印象を、言語に落とし込む(或いは昇華させる)行為であると思う。

頭だけで考えている(と表現される)行為は、得てして感じているに過ぎないことである。

それが過ぎた時に、果たして何を考えていたのかはっきりしたものが残っておらず、単なる一過性の感情と一体何が違ったのか、と訝しむ羽目になる。

 

私たちは絵を見るとき、何となく、「ああ綺麗だなぁ」と思う。この時心の中で何が起きているのだろうか。

恐らく、これは先に記したように、明確には言語化されていない曖昧な感情、印象である。ゆえに、それは広がりに欠けまた何に対してのどのような感情なのか十分明確にされていない。

人の頭の中には感情とそれにまつわる記憶が詰まっている。恐らく上記のように言語化されていない印象を抱くとき、人は過去と照らし合わせて感情の残像に身をゆだねているのであろう。

 

これに対し、言語化するとは、そのような印象に明確な形を与える行為を意味する。

過去の残像ではなく、今ここにあってかつそれが今後持ち得るであろう意味に考察の光を当てる。

 

ここまで書くという事の本質的な意義を考えてきたが、これから、芸術鑑賞における「書く」ことの意味と機能を考えてみたい。

 何か絵を見た時、目に入ってきた情報を受け、過去の印象と照らし合わせて「ああ綺麗だ」と思う。ここまでは、何かを「感じた」或いは「思い出した」というプロセスだ。しかしここにある働きは、情報に対して自己の印象を選ぶといういわば受動的な行為でしかない。この行為は、絵画の情報に対して受け身である。目の前にあるものを「見る」のみで、そこに自分から何かを見出し意味づけていくような鑑賞の仕方は出来ていない。

 

本来良質な芸術を鑑賞する方法とは、このような受動的なものでいいのであろうか。

芸術はより多くを鑑賞者に問いかけるため、全てを語るのではなく、問いかける余地を残している。

(続く)