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日々雑感

日々の他愛ない雑感を記しています。読書、芸術、随想、少し仕事のことなど。

レヴュー アレシンスキー展 @国立国際美術館

 

●アレシンスキー展

下に書いたクラーナハ展と一緒にやってる、アレシンスキーという人の現代アートも良かった。

モダンを見て、初めて作品と自分を近く感じ、「ああこういうものが描きたいんだな」と我が事のように感じることが出来た。

ここで少し、モダンアートに対する考えを書いてみる。

私は、モダンや前衛のアートが、全くわからない。

分からないというのは、ピンとこない、のだ。直観的に美しいと感じることも、勿論ある。例えば、(今は閉館中であるが)ブリヂストン美術館にあったザオ・ウーキーの先品は好きだった。なんというか、色彩が良いとただ思っていただけのこと。

そう感じるほぼ唯一最大の理由は、作品と自分を関連付けられないことにあるのではないかと思う。

描く、とは、対象と自己との関係の置き方であり、対象に自己を投影する行為であると思う。絵画の鑑賞者は、画家が描いたものを通じてその美しさを感じ、その背景にその美しさを愛でる画家の喜びに触れる。

しかるに、モダンアートは、(私の理解では)これまで(近代まで)人間なかんずく画家が行ってきた「描く」「絵を描く」という行為そのものをいったん相対化し、白紙に戻す試みなのではないだろうか、と思っている。このような行為は、例え理屈で理解したとしても、私はまだ共感をもって見ることは出来ない。

 このアレシンスキーの先品は、その点、なんというか、表現者が何かに立ち向かい、それに立ち替わる自分にしかない何かを表現しようとするエネルギーを感じることが出来た。

言葉から離れて自由に描こうとする表現力。

寧ろ、敢えて言葉を相対化し、我々にイメージの挑戦をぶつける。

言葉遊びのような題名と不可解な視覚表現は決して偶然の関係ではなく、言葉と視覚との倒置の試みの結果である。

 

 

抽象絵画について】

我々は、言葉によって物事を理解し、規定する。言葉があれば、何も見えていなくても脳の中にものを描くことすらできる。言葉によって見ている、とすら言える。

絵を見た時も、まず題名を見、イメージし、それに従う視覚情報を絵画の中に探しに行く。およそ普通の鑑賞はそのように、作品に身をゆだねるのではなく、自らの経験に、作品を近づけようとするプロセスだ。そして、被鑑賞物は、ただ見えているということではなく、言葉に規定されたものだ。

 

このような絵画の手法に「待った」をかけようとするのが、抽象絵画ではないかと、私には見える。

アレシンスキーが描く絵は、言葉からの有利、言葉への反逆だ。彼の描く絵画は、抽象画であるが、それは目の前にある何かを超えた、まさに抽象的な何かであるという事。

敢えて言葉をその視覚的イメージから切り離し、彼の自由なイメージをぶつけることで、私たちに、世界を画一的な視点から見る私たちを強くたしなめ、もう一度世界を見直すことを諭しているかのよう。